2023年8月9日水曜日

本能寺の変について、荒木村重・摂津池田衆の視点から考える

★明智光秀に黒幕はいたのか? 本能寺の変、光秀謀反の理由 怨恨説から黒幕説まで 講師 渡邊大門先生【相生歴史研究会】 https://youtu.be/02KSBvdxjyE


を視聴して思うこと。

最近、本能寺事件の事が気になっています。私自身は、藤田先生の説に傾倒しており、今のところ、明智光秀は、足利義昭の誘いに乗ったと考えています。

専門家が調べても判らないのですから、これを解くには相当な調査が必要な事は承知ですが、荒木村重・池田勝正の視点から、キーワードや要素を上げてみたいと思います。

当時、基本的には、単独での行動はしないと考えていますので、どこかと繋がっていると考えています。近年の研究では、信長と天皇との対立説は成り立たなくなりましたね。これについては、橋本政信先生の説(近世公家社会の研究など)に傾倒しています。

それで私は、荒木村重の動きと少し連動させて考えています。

少し時間を遡って、荒木村重の離叛は、出雲の古志氏の史料などでの、そのやり取りの中から実態が見えるように考えています。やはり、村重も、足利義昭の誘いに乗った。しかし、誤算は、明智と細川の裏切りにより、構想が崩れたのではないかと見ています。

一方で、それと同じ構図が、明智光秀の構想の中にも起き、前提が崩れた。やはり、明智も足利義昭の誘いに乗ったのですが、それが急だったのは、「信長に征夷大将軍に成られては困る」という事情から、行動を急いだ結果、後世の私たちにとって、その動機も見つからず、史料も見当たらないという事になっているのではないかと感じています。

 明智光秀は、これ(織田信長の征夷大将軍への任官)を阻止する事が、義昭への大きな手柄と考えた(または要望)のではないでしょうか?任官の事ですので、本人が承諾すればそれが進んでしまいますので、殺害しかないと考えたのではないでしょうか。

この流れで、疑問要素があります。

◎光秀は何時頃から離叛を考えたか。

それからもう一つ思うのは、この初期の頃、羽柴秀吉もこの光秀の動きに同調していたということはないのでしょうか?細川藤孝、筒井順慶などが光秀から離れたという繫がりの中に、秀吉も結束から外れたという要素があったのではないでしょうか?

※今のところ、証拠は無いけど...。

とうのは、一連の動きの中で、

◎秀吉のその後の行動理由が判らない。動機と目的。

重要な動機が見えない。人間の行動は、考えの証明です。それ程急に天下へのもの凄い野心が起きるのだろうか。

ここで解決すべき問題があります。歴史の中の事実。

◎毛利が何故、秀吉の後を追って攻撃しなかったか。ですが、これは磯田道史氏の説に私は傾倒しています。

★備中高松城の戦い 歴史家 磯田 道史氏が徹底解説

https://www.youtube.com/watch?v=d4DZSWdrODA



毛利方に羽柴軍を追えるだけの状況が調わなかった。秀吉は、それも知っていた。ですので、光秀の動きにいつでも対応できる状況にあった。

※ちなみに、上記の動画に「御座所」の見解も示されており、兵站拠点として、輸送拠点、伝馬として解説されています。


一方で、荒木村重の動きなのですが、この頃、尾道あたりに居たようですね。あんまり史料には出てきませんが...。それで、備中高松攻めの陣中には、木下重堅という一族衆が居ました。また、秀吉の一団の中に、旧池田家臣、池田勘助(池田紀伊守清貪斎の家系)という者がおり、天正7年11月26日付けの湯山宛秀吉の文書の中で使者として見えます。

 池田勘助は、毛利を頼って身を寄せていたらしく、岡山県真備町のあたりに賄いの領知をえていたようですが、織田方の毛利への攻勢を前に、秀吉方に寝返った(宇喜多が寝返った頃)ようです。

これらの人物を通じて、毛利方の様子は、秀吉方に報告されていた可能性もあると思うのですが、証拠が今のところありません。(調査中です。仕事の合間の勉強ですので...。トホホ。)

 村重は晩年、秀吉のお伽衆になっているところが、こういった貢献によるものではないかとも感じます。また、その中で、鋳物師関連の取りまとめも行っていたようです。


以下、村重に関する要素(本能寺の変に繋がる)をキーワード的に上げます。


【村重の恨み】

・明智・細川に裏切られた

・毛利の失策で、計画が失敗した

・信長に一族郎党皆殺しにされた


しかし、秀吉に村重の恨みはない。秀吉から誘われれば、断る理由がない。


それぞれの証拠を揃えなければいけないのですが、私の視点では、そのような接点があったのではないかと感じているところです。




2023年6月13日火曜日

戦国武将荒木村重の軌跡を紐解き謎を解く

 戦国武将荒木村重は、摂津国人池田家の臣でした。戦国の世の風雲児となり、いち地域の武将から摂津一国の、加えて河内半国も領有する戦国大名に成長します。それは織田信長政権に重用され、村重自身の能力も伴って、急成長します。天正元年から僅か6年程です。

 1578年(天正)6年初冬、荒木村重は、成長の土台であった、織田信長政権から離れる事を決断します。「荒木村重の謀反」などとして、このエピソードは、近年大きく注目され、映画やドラマなど、様々なメディアにも取り上げられるようになりました。

 私が調べ始めた2001年頃、荒木村重は、織田信長家中の武将としては無名で、多くの人はその名を知りませんでした。あれから20年以上が経ち、近年、急にその名を聞くようになり、それ故に、謎の人物と枕詞を付けられて取り上げられる事が一般的です。滅びたために、それは仕方のない事ですね。

私の研究テーマは、摂津の戦国大名池田筑後守勝正ですが、その勝正の重臣としても仕えていたために、多くの史料にあたりました。ただ、断片的で、史料の年号もないために、内容をどのように理解すべきか、解らないままでした。しかし、近年、諸研究も進み、それらの多くも解明に結びついた事から、その謎の戦国大名荒木村重のたどった道筋も解明が進みました。ここで一先ず、まとめてみたく思いますので、順次、発表していきたいと思います。


以下の項目を書き足しつつ、完成させたいと思います。

【荒木村重の軌跡】

    • 出自
    • 池田家中の摂津荒木家
    • 荒木家の登用
    • 荒木村重登場
    • 惣領池田筑後守勝正の追放
    • 池田二十一人衆の実態
    • 村重が池田家政中枢に抜擢される
    • 村重は下剋上の体現者ではない
    • 摂津池田家分裂
    • 村重が織田信長に味方し、池田家が将軍義昭に味方した運命の岐路
    • 高槻城内の内訌を村重が支援
    • 村重の「摂津守」任官時期と意味、そして成長
    • 摂津一国に加えて河内国北半も領有を任されていた村重
    • 織田信長政権下での村重の役割り
    • 村重の織田政権からの離叛とその理由


2023年6月11日日曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:おわりに)

天正7年10月3日付けのパードレ・ジョアン・フランシスコ書翰に、「其の(織田信長)臣下の一人にして二国の領主(摂津・河内を領せる荒木村重)たる者をして彼に叛起し数年来攻囲せる敵方(石山本願寺)に投ぜしめたり。」とある *20。この記述は、当時の状況を伝えるものであったのだろうと思われる。
 天正3年2月当時、信長が「摂津・河内」という重要地域の一職知行を村重に約した意図は、それによる京都(政権)の安定と大坂本願寺への布石として期待しためと思われる。織田政権の基礎作りにおいて、土着性を持つ村重に対し、摂津国に加えて河内(半)国をも任せたのは、特別な理由があった。
 それは信長が、複雑な政治情勢を考慮して、元々基盤のない畿内で分国を持つ事に慎重だったのではないかともされており、摂津国大坂に本拠を置く本願寺宗と敵対するについては、早急に在地勢力を取り込んで体制作りを行う必要があったためと考えられる。
 しかしながら、荒尾市荒木家文書の内容の問題としては、天正3年11月頃から村重は「摂津守」を公(おおやけ)に名乗るが、それ以前に信長が、公文書に摂津守を明記するかどうかという点がある。
 ただ、これまでに述べたように、織田政権の領国統治概念と当時の状況から考えると、有望で実質的な一職者である村重に対する、正式な(若しくは、新たな加増分の支配者として)一職知行契約の提示と考えるならば、時期的にも矛盾は無いように思われる。実際にこういった形の一職提示は、浦上宗景・三村元親 *21・播磨国守護系赤松氏などへの対応で多く見られる。
 先にも述べたように、天正3年11月には確実に、村重は自ら摂津守を公に名乗っているが、それは信長からの条件を満たした事で承認され、公的に摂津守を叙任した背景があったからなのかもしれない。
 何れにしても村重のその行動を支えたのは、地域内の一職契約と守護的裏付けがあったためと考えられる *22。また、然るべき時期に契約が提示された事は、村重の織田政権に対する、将来への基礎的な信頼関係構築ともなり得たであろう。

拙いながらも筆者が述べたように、文書自体の真偽は別としても、荒尾市荒木家文書については、それを発行するに至る、当時の政治環境が整っていように思えるのである。学界での研究論文の一部ではあるが、それらに照らしても、同文書(史料)は、公的な文書として成立する背景が全く有り得ないとは言い切れず、その可能性について筆者は、再び多角的な検証を行っても良いのではないかと考えるのである。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(20)八木哲浩編『荒木村重史料』伊丹資料叢書四(66頁)。
(21)「織田信長が八月五日付けで三村元親へ宛てた音信」『黄微古簡集』岡山県地方史研究連絡協議会。
(22)前掲註(6)、「三 一職支配=一円知行の本質」(補論)。







荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(備考:『荒尾市荒木家文書』天正3年2月付けの織田信長による荒木村重へ宛てた朱印状)

この史料については、写真があるので、許可や環境が整えば公開したいとも思っている。しかし、今のところ、文字のみをご覧頂く事にする。
 史料について、発表時の会報『村重』創刊号でも、若干の考証がされている。加えて、個人的にも専門家に聞いてみたが、「正文ではない」旨の回答だった。
 史料についての筆者の考えは論文にして述べた。もう少し補足するとすれば、この文書を受け継いだ人々の誰かが、重要な文書であるために、できるだけ復元しておこうと、朱印部分などを加えたりしたが故に、全体的な価値や判断を狂わせるような自体にせしめたのではないかと考えたりもした。

痕跡も無いものを作る事は困難だと思われる。何らかの端緒があって、また、そのものがあって、現存のカタチになっている事は間違いないと思う。それに、この一点だけが伝わっているのでは無く、村重に関する史料が数点(会報に掲載されているのは4点)、荒木家に伝わっているのである。

くどいようだが、筆者はこの史料の価値は、全く無いとは言えないと考えている。

以下、天正3年2月付けの織田信長による荒木村重へ宛てた朱印状の翻刻。

今度其の元忠節の事に依り、摂津国江(与?)河内之中相添え、都合四拾万石宛行われ候条、以後忠勤抽んずべく候也。

天正三年二月 (信長印)
    荒木摂津守殿








荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:二 村重の河内国との関係)

摂津・河内両国は、直接的に京都と接している事もあり、様々な面で非常に重要である。この点でも織田政権下では「摂河」という一体化した地域として促えられる事 *16も多々あった。
 永禄11年秋、足利義昭が将軍になった時、河内国は二分支配され、中央から北を三好義継が、その南を畠山昭高が守護として領有していた。
 その後、将軍義昭と信長が争う中で三好氏は滅び、その重臣であった池田教正など若江三人衆といわれる人々が信長に従って、その支配を引き継いだ。しかし、この集団は地域の代表的人々であり、統率するというには身分や効率性、主導性に劣っていたように見える。
 こういった当時の状況もふまえ、荒木村重の人物的素要と個人的構想は、信長の目的に沿い、摂津国一職に加え、河内国の中・北部、則ち三好氏の支配地も信長から任された可能性があったように思われる。それについての要素がいくつか見出せる。
 信長は元亀元年から大坂本願寺に対峙するにあたり、その伏線上としても、自らの政権(構想)での直接管理が有利と考えると、キリスト教の布教について積極的に許可し、その動きの中で村重も、その領内において、その方針通りに追認する。
 河内国には元々、飯盛山城下を中心としてキリスト教徒の活動拠点が多く、こういった経緯も視野に入れて、同国内の本願寺宗への懐柔策ともしていたらしい。織田方が大坂本願寺を完全包囲するには、河内国の掌握が不可欠であった。
 それからまた、年記未詳4月6日付けで村重が、播磨国人らしき原右京進なる人物へ音信した中に、「安見」という名の人物が村重の使者として現れる *17。安見といえば思いつくのが、河内国北部の有力国人であり、同国で畠山氏が守護であった時代に側近を務めた一族である。
 その一致は現時点で確定的ではないが、村重と安見某が同時に史料上で確認できる事は、偶然とは考えられない。また、安見新七郎なる人物が、同地域の鋳物師集団も掌握している *18。河内鋳物師は全国的に知られた職人である。
 一方、天正2年4月11日付けで池田教正が、村重とも関係があるらしい栗山佐渡守の知行について、沙汰状を発行している *19
 このように村重の河内(半)国領有を想像させる関連要素は少なく無く、また、織田政権の当時の状況からも全く不自然とは考えられないのである。


【註】
(16)「織田信長が八月一七日付で長岡(細川)藤孝へ宛てた音信」等。『新修 大阪市史』第五巻(182頁)。
(17)「荒木村重が四月六日付で播磨国人らしき原右京進某へ宛てた音信」『小野市史』第四巻 (380頁)。
(18)「長雲軒妙相が安見新七郎宿所へ宛てた音信」『中世鋳物師史料』財団法人法政大学出版局(171頁)。
(19)『尼崎市史』第四巻 (297頁)。







荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第四章 織田政権での荒木村重:一 摂津国統一過程と周辺環境)

荒尾市荒木家文書にある天正3年2月頃は、その宛先である荒木村重にとって、どのような環境であったのか考えてみたい。先ず、その背景としての経過と前年の様子を俯瞰してみる。
 天正2年は、将軍義昭と織田信長の闘争の余震があり、信長は自らの政権を築くため、体制の整備に注力していた。依然、畿内とその周辺において義昭の影響力は強かった。摂津国内の旧政権守護格である池田・伊丹氏と大坂本願寺の動き、近江国では六角氏、伊勢国長嶋の本願寺宗、甲斐国守護武田氏の西進、安芸国毛利氏の東進の動きがあり、信長は対抗勢力に、速やか且つ、根本的な対応が必要であった。
 そんな中で村重は、池田・伊丹氏を制圧し、大坂本願寺も軍事的な封じ込めに成功。そして村重は、有馬郡守護の有馬氏を除いて、天正3年夏頃には、ほぼ国内を掌握して伊丹・花隈等の要所に城を築いて整備も行った。
 同時に織田方も伊勢国長嶋を制圧、近江国の六角氏勢力を壊滅させる等、可能な要素から各個対応を行った。残る要素へも十分な準備を整えて、計画通りに進めていたのだった。
 そして天正3年、信長はその計画を実行する。2月、部将となった明智光秀が丹波国へ進攻。他方、3月は河内国へ侵攻し、翌月に高屋城を降した。5月、三河国長篠で武田勝頼を破り、8月には越前国など北陸方面の一向宗を制圧。
 このように織田方は、畿内諸勢力と繋がる周辺勢力を撃破したため、孤立を深めた大坂本願寺方から和睦を引き出す程の優位に立った。また、信長はこの間に、京都で徳政令を発布。これは前例に無い程、大規模な対応を朝廷・権門へ実施し、政治的な対策も怠らなかった *15
 織田政権は、天正2年から翌年にかけて、体制作りと軍事的目標への決戦準備を行い、着実に達成させていた。村重もその計画通りに行動し、軍事・政治共に同政権を支えたのだった。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(15)前掲註(6)、「二 天正三年徳政令と新知進献」(第四章 第一節)。







荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第三章 信長の領国統治体制:二 柴田勝家の場合)

織田信長は将軍義昭の追放を決して以降、独自に「天下」を掌握しようとした頃から、一職支配・守護補任をし始める。長岡(細川)藤孝に山城国桂川西岸地域の一職を与え、塙(原田)直政に山城・大和国の守護を与えている。直政の両国守護は、当時でも前代未聞としている。
天正3年9月、信長は重臣の柴田勝家を越前国に封じた。その際、信長により「越前国掟条々」との朱印状を与え、織田政権下の一職支配において、統一権力としての支配原則とそれを委ねられた武将の関係を規定している。
 その中では、大綱をいくつかに分けて記されているが、特に第六条に「大国を預置」とし、それに対し「越前国之儀、多分柴田令覚悟候」とある事に脇田氏は注目している。これは、信長にとって越前国を柴田に預けたのであり、いつでも返却の義務を負うとの意味であるとしている。また、信長はかかる家臣への支配を、より強力にするために「目付」を置いている。
 しかし、一方で信長は、そういった任免権を完全に掌握しつつ、地域采配での一定の裁量権を柴田に与えている。これにより柴田は検地を行った上で、実際に知行の宛行いを執行する事も、一職支配には含まれていたと分析されている *14
 このように、一職支配下の地域においても信長が掌握しており、信長は上級土地所有権を確保しながら、政策の徹底管理をし、更に、人間関係をも規定して、管理不行き届きによる離脱や変転を未然に防ぐ策を講じていた。


【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(14)前掲註(5)、「二 統一権力と一職支配」(第三章 第一節)。