戦国武将荒木村重は、摂津国人池田家の臣でした。戦国の世の風雲児となり、いち地域の武将から摂津一国の、加えて河内半国も領有する戦国大名に成長します。それは織田信長政権に重用され、村重自身の能力も伴って、急成長します。天正元年から僅か6年程です。
1578年(天正)6年初冬、荒木村重は、成長の土台であった、織田信長政権から離れる事を決断します。「荒木村重の謀反」などとして、このエピソードは、近年大きく注目され、映画やドラマなど、様々なメディアにも取り上げられるようになりました。
私が調べ始めた2001年頃、荒木村重は、織田信長家中の武将としては無名で、多くの人はその名を知りませんでした。あれから20年以上が経ち、近年、急にその名を聞くようになり、それ故に、謎の人物と枕詞を付けられて取り上げられる事が一般的です。滅びたために、それは仕方のない事ですね。
私の研究テーマは、摂津の戦国大名池田筑後守勝正ですが、その勝正の重臣としても仕えていたために、多くの史料にあたりました。ただ、断片的で、史料の年号もないために、内容をどのように理解すべきか、解らないままでした。しかし、近年、諸研究も進み、それらの多くも解明に結びついた事から、その謎の戦国大名荒木村重のたどった道筋も解明が進みました。ここで一先ず、まとめてみたく思いますので、順次、発表していきたいと思います。
以下の項目を書き足しつつ、完成させたいと思います。
【荒木村重の軌跡】
- 出自
- 池田家中の摂津荒木家
- 荒木家の登用
- 荒木村重登場
- 惣領池田筑後守勝正の追放
- 池田二十一人衆の実態
- 村重が池田家政中枢に抜擢される
- 村重は下剋上の体現者ではない
- 摂津池田家分裂
- 村重が織田信長に味方し、池田家が将軍義昭に味方した運命の岐路
- 高槻城内の内訌を村重が支援
- 村重の「摂津守」任官時期と意味、そして成長
- 摂津一国に加えて河内国北半も領有を任されていた村重
- 織田信長政権下での村重の役割り
- 村重の織田政権からの離叛とその理由