2023年6月11日日曜日

荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第三章 信長の領国統治体制:一 守護と一職支配の関係)

織田政権における一職支配がどのように成立したのか、脇田氏の分析 *13を見ておきたい。
 織田信長が尾張国の支配者となったのは、永禄2年(1559)春、同族で同苗の信賢を降した時であった。これを以て信長は直ちに上洛し、将軍義輝に参勤して御礼を述べている。
 これは、信長が実力で一国の支配者となった事に対し、その権力の裏付けのために将軍の承認を求めたのであった。永禄11年秋、信長の上洛直前までの名乗りは、一国支配権としての尾張守護権継承であって、尾張国の正統な支配者としての地位を示すものであった。地域支配権としての一職は、守護ないし、守護に准ずるものと捉えられている事が明白であると分析されている。
 それから後、信長が京都において独自に政権を築く中でも、それと同様の概念が存続していたと考えられる。『信長公記』に「惣別、荒木ハ雖一僕之身に候、一年公方様御敵之砌、忠節申候に付て、摂津国一職に被仰付」とあり、荒木村重が「摂津守」を名乗り、摂津国を支配した事は明らかであるから、一職支配と守護の関係は密接であった。織田政権の一円知行は一職支配として記載され、それが守護権の継承である事も明らかである、と述べられている。
 また、実質的に村重が摂津国内を切り従える過程で、在地における複雑な土地所有、権利関係、領主・農民の階級関係は、領主からすれば安定的とは言えず、村重としては、より上級の強力な権力の保証が必須であり、織田政権による一職を必要としたとも考えられている。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(13)前掲註(6)、「一 一職支配と守護権」(第三章 第一節)。







荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第二章 検地について:三 家数改め)

織田信長は、指出・検地と共に領国内で家数改めを行った。この家数改めは、直接百姓を人身的に把握しようと試みたものとされている *12。夫役(役務)徴発は、家数改めを基礎に行われた。
 家数改めは、支配領域拡大と共に順次実施され、近江国では永禄11年頃から数年かけて、河内国では天正4年頃に高屋城を中心とした南部方面で、また越前国等でも行われていたらしい。
 このような織田政権の領内の人身把握によって、様々な夫役が課せられた。出陣時の陣夫(兵としても)・建設用務や日常用務、竹・藁・縄などの供出があった。
 信長は、この家数改めについて一定基準を作りつつ領内の把握を行い、必要な要素を速やかに徴集した。また、地域を一職支配している柴田勝家などの武将もそれと同様に管理していた。



【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(12)前掲註(6)、「四 夫役徴収の実態」(第五章 第二節)。







荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第二章 検地について:二 指出と検地)

脇田氏によると「戦国大名織田政権も領域内において、指出・検地を実施し、土地所有関係を整備したことは明らかである。」としている *10。その中で荒木村重が、織田政権に属していた頃のものを見てみたい。
 「指出」については、永禄11年に近江国安吉郷等、翌年に堺周辺地域、天正3年及び翌年に山城国狛氏所領等で行われている。「検地」は、元亀2年頃に伊勢国の神戸氏所領等、天正5年に越前国で行われた。
 そしてこの時の高表示は、貫高が伊勢国、石高が近江・山城・越前国となっている。因みに摂津国垂水西牧南郷の年貢についての記録 *11では、基本的には石高で、それを貫高換算して並記もしてある。
 さて、「指出」とはその名の通り、所有者・給人・一職者等により年貢高を指出し、織田政権としてこれを把握した後に再確認し、支配を行なっていた。これは、同時に複数関わっていた権利の錯綜を整理し、一元的に権力と結び付ける意図もあった。対して「検地」とは、縄打ち・竿入れ等といわれ、現地にて土地丈量を行うものである。随って、強権により在地に臨む事となる。
 両者はいわば、自己申告と強制調査のような感覚であるが、何れにしても収入を権力者に把握されるのだから、当事者にとってはかなりの抵抗感がある。中でも検地は、よほど時期を見極めなければならない、大変な政治事業である。
 しかしながら、この指出・検地は、富の収奪という面もあるが、権利の整理と把握が一体化した目的であり、是非とも行わなければならない政策であった。


【註】
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(10)前掲註(6)、「一 検地・指出の実施状況」(第三章 第二節)。
(11)「南都代官方算用状」等。『豊中市史』史料編 二。







荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第二章 検地について:一 中世の石高と近世の石高の違い)

「石高」とはどんな定儀なのか、少し考えてみたい。石高制の一般的な把握は、米納年貢を基本とした「総生産」高で、これはまた正確な土地の測量と把握によって成されており、太閤検地を経た、徳川幕府による完成された政策という事が通念化しているように思われる。それがいわゆる近世と中世の特徴的な違いとして理解されているのであるが、その石高の概念は突然現れたものではない。時代により、意味合いを変えて存在したのである。
 当然、石高は中世にも概念はあり、それについて脇田氏は「則ち石高は米作を行わない畑、屋敷を含めて算定され、また農村・都市を問わず実施されている。その際、石高は米の生産高といいながら、現実の生産高ではなくて、町場における石高は、純農村部より高く、大坂では反当り4石2斗となっている。随って石高は、米の生産高に一定の社会的富を考慮して決定されたものといわれるのである。」と述べている *9。また、同氏は「つまり石高自体が米の生産高を基準としつつも、社会的富の表現であり、使用価値としてのみではなく、商品価値を有するものとして実現していたのではないか。」ともしている。
 この事は勿論、近世においても同様の理解と算定がなされていた部分もあると思うが、中世から近世への過渡期、織田信長の登場で、その複雑な富の権利関係を権力側にひき寄せる試みがなされ、それが軍事・経済的優位をも生み、中世的世界を抱える戦国大名を圧倒していった。


【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(9)前掲註(5)、「第一節 石高制における石の性格」(第一章)。







荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:四 軍事政策)

「兵農分離」という言葉と織田信長という人物名は、親密でもある。兵農分離とは単に、兵と農との職種を分けるためではなく、上位への権力集中の意図があり、その事は命令行動の効率化や速応体制の構築をも目的としていたらしい *8。これは数だけの軍事力では無い、体質強化への改革でもあった。
 それは封建社会においての基底的な関係でもある土地所有関係、一職権利関係、人身的従属が錯綜し、常に動揺していた事に対する身分社会の再構築でもあった。それからまた、それまでの動揺の中で常に見られた、領主層の一揆への加担やそのための分裂等について、それらの関係性を断ち、上級権力へ軍事力を集中させる試みが、兵農分離の根本概念であったとされている。
 それ故に、あらゆる階級層・身分で、規定の再編・厳格化が進められ、所有関係・役負担体系の再編となり、兵農の他、商農などの分離も行われた。これは、軍と非軍の正確な把握となり、全体の価値、いわば国力の把握にもなり、やがて個別政策によって全体の効率化にも繋がった。
 信長は、そうやって編成された軍を持つ家臣団を城下町に集住させ、統制によって効果的な武力利用を行っていた訳である。同時代には日本各地で同様の傾向にはあったと思われるが、その本質は、織田領国内のそれと大きく違っていた。
 後に信長の領国は急拡大するが、基本方針を守りながら情況に応じて変化・拡大させ、再編を繰り返し行った。そして地域の担当武将などによって、諸施策を忠実に実行させる独自の仕組みを構築した。信長は、その管理者としても独創的であった。



【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(8)前掲註(5)、「第一節 兵農分離の実現」(第三章)。







荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:三 経済政策)

織田政権の支配地域では、国毎に貫や石の高表示が存在していた。これは、当時の市場と地域の事情もあり、それを容認していた事にもなる。
 中世においては、荘園年貢の代銭納が発達しており、それは遠隔地からの現物輪送の困難さにも起因していた。また、室町中期以降、畿内近国は首都市場圏ともいわれる巨大なマーケットとなっており、全国の市場の中心的地位を占めていた。
 例えば、応永14年(1407)と翌年の山科家財政状況が分析 *5されている。この年貢の大部分は代銭納であるが、美濃・紀伊・丹波・播磨など畿内近国は現物納が行われている。このように遠隔地からは代銭納を行わせ、畿内・近国からは現物で収納させているのは、京都での年貢物販売と交換による、地域差からの利潤も含める仕組みができ上がっていたためでもある。こういった流通経済の情況を前提として、自己の所領を統一的に表し、「高」の掌握を行った。
 織田政権は、尾張・美濃・伊勢において、貫高を採用していた。これに対し、石高を採用していたのは、京都を中心とする首都市場圏で、それは米を主とする高表示となっていた *6
 それからまた、石高制と貫高制を考える上で重要な、織田信長による「撰銭令」がある。この政策は、市場の悪銭(ニセ銭も含む価値の著しく低い銭。国内私鋳銭等。)の整理と規定であるが、信長は永禄12年2月28日に本令、翌月16日に追加を京都で施行。この時、貨幣の代りとして米を用いる事を禁止し、悪銭の価値基準をも設けていた。また、金・銀の比価も示した *7
 この政令のため京都へ米が入らず、市場が混乱。この事は、米に内包された商品価値による「貨幣」的性格を現していると考えられている。また、信長の本拠であった岐阜では、この撰銭令が特に厳格に行われた事もあって悪銭が集中、商売が停止してしまう事態ともなっていた。
 信長による撰銭令は、金銀銭の規定など経済政策を多面的に展開して、問題解決を図ろうとしたが、流通経済においては混乱を招いただけに終った。
 随って、この撰銭令は貫徹されず、結局、米による取引がなされるようになり、織田政権はこれを容認せざるを得なくなる。その伝統的・社会的に安定した価値は、確実な流通手段となっていたのである。元々首都市場圏の発達において、米の商品化は進んでおり、それが畿内近国における「石」高の基盤になったと考えられている。


【註】
(5)脇田修「一 貫高と「石」高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析二)』東京大学出版会(第一章 第一節)。
(6)脇田修「二 織田検地における高」『近世封建制成立史論(織豊政権の分析一)』東京大学出版会(第三章 第二節)。
(7)前掲註(5)、「二 銭と米の流通」(第一章 第一節)。







荒木村重は摂津国及び河内北半国も領有した事について(第一章 天正三年頃までの織田信長の政治:二 信長の社会的地位)

永禄11年秋の入洛後、信長は、幕府・朝廷からの役職・官位授与を固辞し続けていたが、元亀4年(天正元)に将軍義昭が京都を落ちた後、その方針を変える事となった。
 信長は、義昭の子息義尋(よしひろ)を庇護・推戴しつつ、天正2年3月18日に参議・従三位となり、以後、年毎に昇進する。翌年11月、権大納言・右大将に任官し、この時点で自ら開幕可能な地位(元亀4年7月時点の義昭は、権大納言・征夷大将軍・従三位。)に就いた。これにより、室町幕府から自立する土台ができ、公にもその事を喧伝する事となった *3
 因みに、信長はこの年7月、官位昇進の勅諚を一旦辞退したが、一方で勅許を願い出、主立った家臣へ惟任・惟住・原田等九州の名族の称を各々に与えている *4。もしかすると村重の「摂津守」の正式な名乗りも、これに関係したものかもしれない。
 また、同年に信長は、家督を嫡男信忠に譲ってもおり、この年は織田政権にとっての画期であった。そして同6年正月、信長は正二位に昇った。
 この信長の、将軍義昭追放後からの積極的な任官は、京都という全国市場の中枢支配において、有利な現実があったためと考えられている。また、次第に信長は、武家としての強力な政権を築いたが、その決定的な力を持ちつつも公家や寺社の否認に使わず、保護を行った。このために用いるべく術(方法)として、任官も大きく役立ったらしい。



【註】
(3)藤田達生「室町幕府体制との決別」『本能寺の変の群像(中世と近世の相克)』雄山閣出版(第一章 4)。
(4)前掲註(1)、「一 薩摩下向の目的」(第一部 第三章)。